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私は祖父の代から続く「金子総本店」のひとり娘として、この下北沢で育ちました。昔は葬儀業といえば家族全員で取り組む仕事ですから、わが家で賑やかにお祝い事をしていても、「ごめんください」と身内を亡くされた方がお見えになれば、即座にシーンと静まり返らなければいけない、そんな葬儀屋ならではの家庭でした。
幼少期から、大切なご家族を亡くされた方と接する機会の多い環境でしたから、自然とご遺族の気持ちを思いやり、「自分だったらどうして欲しいだろう?」と考えながら、悲しみに寄り添うように育ったことは私の天命かもしれません。
創業者である祖父は、毎朝3時に起きて駅前までお掃除することを日課にし、その後は朝7時から「おはようございます。金子です」と一軒一軒ご挨拶にまわっていた姿をよく覚えています。下北沢の皆さんと仲良く接することをいつも心がけていましたね。そうすることで急なご不幸の時にも、より親身になって万全のご対応ができるという想いがあったようです。
二代目の父は、全国の葬儀屋のことを考え、その地位を高めるべく奮闘した人でした。昔の葬儀屋は今と違ってスーツではなく、「はんてん」が仕事着だったのですが、父は今でいうホワイトカラーの方々と堂々と向き合えるように「組合制度」を設けたり、この業界に「領収書」と「請求書」の概念を持ち込んだりと、当時としては新しい試みを行っていました。
この下北沢で、街の人々との幅広い交流を築き上げた初代の祖父。葬儀業の発展のために尽力した二代目の父。私にとって心から尊敬できる自慢の「おじいちゃん」と「お父さん」です。
1993年に父が亡くなり、三代目として私が「金子総本店」を受け継ぎました。生前、すでにヴォーカリストとして活躍していた私に「家業は継がなくていい。好きなように生きなさい」と父は言っていました。
でも「本当にそれでいいのだろうか」という疑問や、二代続いてきた「金子総本店」を自分の代で閉めることへの悔しさ、そして「この仕事は誰にでもできる仕事ではない」という想いに駆り立てられ、金子総本店を守り抜こうと決意し、この20年を走り抜いてきました。
私のもう一つの本業はヴォーカリスト。40年以上、ステージ上のミュージシャン達と、そして目の前のたくさんのオーディエンスと音楽を通じて<対面コミュニケーション>を行ってきましたが、私は葬儀においてもその<対面コミュニケーション>を重要視しています。
一度きりの葬儀において、失敗は絶対に許されません。
故人様、ご遺族様、ご弔問客とすべての皆様に、強烈な集中力で対面し、きめ細やかな気配りで「よいお葬式」を実現しなければならないのです。一人一人と真摯に向き合う<対面コミュニケーション>は、祖父の代から続く「金子総本店」のDNAだと私は思っています。
近年はご遺族がお亡くなりになっても、「とりあえず」という気持ちで手軽に葬儀を済ませる風潮が強いようです。
もちろん葬儀スタイルは時代によって変化しますが、いつの時代であれ、故人への感謝や敬意を最大限に払い、その想いを伝える場として葬儀はなくてはならないものです。
金子総本店では家族葬をはじめ、心のこもった温かみのある葬儀を皆様にお届けしてまいります。ぜひ「事前相談」で私たちと向き合い、どんな想いもお伝えください。悔いのない、十分に想いがつまった葬儀の実現に全力でお手伝いいたします。
金子総本店はいつも皆様の側にいます。いつでもお越しくださいませ。
▼ 金子総本店なら、ご希望に添った葬儀が可能です! ▼
金子の葬儀は、思いやりの葬儀。
故人・ご家族様に寄り添い、
故人様ならではの
【ただ一つのご葬儀】を叶えます。
東京都世田谷区下北沢出身。ロックヴォーカリスト。ジャニス・ジョプリンを彷彿とさせる、唯一無比な歌声と圧倒的な存在感から「下北のジャニス」と呼ばれる。1973年にギタリストChar氏と出会いバンドを結成し、翌年、内田裕也氏に認められて「金子マリ&バックスバニー」でレコードデビュー。以後、精力的に活動を行い現在に至る。1993年より「金子総本店」の三代目代表に就任。音楽業に負けない強い想いで葬儀業にも従事。日々、「信頼できるまちの葬儀社」として心温まる理想の葬儀を追求している。
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